Ayuのつぶやき。

徒然なるままに。

自己肯定感と自己分析と本当にやりたいこと。

適応障害になるまで、

私はポジティブな性格だと思っていたし、

しんどい思いもしたけれど、

夢を叶えて、やりたかったことをしている。

ということは自信になっていたし、

そのお陰で自己肯定感は低い人間だったけど

自己評価はそれなりにしてた気がします。

 

だから、仕事に行けなくなって、

病休になってから、

なんというか、自分の存在価値が無くなったような

そんな気持ちで押しつぶされそうでした。

仕事もできない、このまま辞めるしかなさそうな私、

なんのために生きているんだろう、って。

かろうじて、鬱にまでならなかったのは、

根がポジティブ人間だったからかもしれません。笑

けど、一時期は楽しいとか、嬉しいとか

そうゆう気持ちがわからなくなっちゃって、

文字を読むのもしんどいし、

芸人がお笑いをしているのを見て、

笑い声が苦痛で見るのがしんどくて。

なによりテレビとかの音を、言葉として認識するのも

なんだか疲れを感じてしまって。

推しの歌でさえも、なんだか苦しくて聴けなくて。

ただただ、天井を見上げて時間が経つのを待ってた

そんな時期もありました。

 

仕事から離れて、少しずつ元気になってきて、

これからどうしよう。って思った時、

人生迷子状態だったので、

まずは自分のこと知らなきゃ。と思って、改めて、

自己分析、というものをしました。

 

学生時代や就職時には

看護師になることしか考えてなかったので、

ぶっちゃけ、看護師になること前提の

自己分析しかしたことなかったのです。

看護師になりたくて勉強して、

しばらく看護師をしていた、という事実だけ認めて、

じゃあなぜ看護師になりたかったのか。

私が大切にしていることは何か。

今まで何が好きで、どんなことが楽しくて、

これからどんなふうに生きていきたいか。

ノートを準備して、

メモの魔力の自己分析1000問をやってみました。

まあ、200問くらいで挫折したんだけど笑。

 

自分だけで悶々と考えるだけじゃなくで、

友達に、私ってどんな人間だと思う?

って質問して、他人から見た私、を教えてもらって。

(ジョハリの窓の、盲目の窓の部分を知りたくて。)

 

自己分析をする中で思ったのは、

自分と向き合うって、実はめちゃくちゃしんどい。

本当の自分って、理想と全然違って、

格好悪くて、ズルくて、ダメダメで。

でも、だからこそ、その本当の自分を知ることは

自分にさえ隠してきた本音が隠れてたりして。

 

その時は漠然としてて、正直はっきりしなくて

せっかく自己分析したのに

ちゃんと答えは見つからなかったなぁ

って思ったんだけど笑。

 

ニュアンスというか、

ちゃんと言語化しきれてなかった方向性とか、

そうゆうのがやっと最近になって、

少しずつ形が見えるようになってきてたりしてます。

(これはもう少し、しっかり形になるように

これから育てていきたいと思っています。)

 

病休中だったので、

時間もたっぷり使って、

看護師に戻らないことも含めて

色々考えることができたこと。

本当に、この時ちゃんと考えて、

今までやってきたからとか、

ここまで頑張ってきたのが勿体無いとかじゃなくて、

看護が純粋に大好きで、

看護師をやりたい気持ちがちゃんとあることを

再認識してから看護師に戻ることを決意したのは

本当に良かったと思っています。

 

だから、今の私がいるんだと思うし、

今楽しく看護できているのは、

その時自分と向き合ったおかげだなって思います。

 

今の職場に戻るのは身体的にも心的にも

苦しいから、看護をする場所を変えよう。

そう決めてから、職場への退職交渉と並行して

看護師の働く場所とか、働き方とか、

今の住んでいるところ、別の地域、色々含めて

たくさん調べて、

どんなふうに働きたいか、理想もあるし、

現実的にはどうか

(ICU経験しかないっていう欠点をどうカバーするか)

某エージェントさんや、ハローワーク

看護協会やナースセンター、

友達や母の職場の人からの口コミ...

使えるところ、協力してくれる人は全部頼る勢いで

周りにたくさん助けてもらって、

これからの道を模索しました。

 

でも最後にこうするって決意したのは自分。

自分の選択で、いまの道を選び取りました。

色々思ったり、悩んだりすることもあるけれど、

私を認めてくれる上長や仲間のいる今の職場。

色々任せてくれて、それが大変だったりもするけど

私の意見や想いを大切にしてくれる。

恵まれた、よい職場を選び取ったと思っています。

だからこそ、私はもっと成長したいし、

新人教育や学生担当で看護って素敵だよって

たくさん伝えていきたいし、

患者さんにも良い看護を、

還元していけたらいいなぁって思います。

ブログ書きながら、

また明日からも頑張ろう〜って気持ちが

もくもく出てきました⑅︎◡̈︎*

明日も夜勤。頑張ります!

 

学生時代、救急との出会い。

ちょっと暗めで重めの話が続いてしまったので

少し楽しかった思い出話を。

高校生の頃、コードブルーが放映されていました。

(もうほぼ年代絞れちゃうやつ笑)

冴島さんがめちゃくちゃかっこいいなーって思って、

でも、救急はきっと私に向かないだろうなって

勝手に思ってました。

 

4月。

念願の看護学生になった私は、

オリエンテーションキャンプの活動の一つで

運命の出会いをしました。

一次救命処置(BLS)を教えにきてくれた先輩たち。

心臓マッサージする姿がカッコよくて、

なんというか、医療系学生。って感じがしました笑。

ほんと短い時間だったんですが、

その後、その先輩たちはサークル活動で来ていて、

一般向けのBLS講習会やAED体験会をしたり

全国の医療系学生と集まって勉強会したりする

いわゆる救急サークルの

メンバーだったのだと知りました。

めちゃくちゃ格好良くて、

迷うことなくそのサークルの連絡先に連絡を取り

メンバーに仲間入り。

最終的に約5年間、がっつり活動に参加し、

救急漬けの大学時代となりました。

 

毎週末のように全国各地飛び回り

全国の医療系学生で集まり、勉強会をし

夜な夜な飲み会で、

勉強会でやったシナリオを振り返り

これからの医療を語らい(こっちがメインかも笑)

今思い出すと、青春してたなぁ。って笑。

今でこそ集まることはなかなかなくなったけど、

今でもその時のメンバーとは繋がっていて、

全国各地、それぞれの地で活躍していることが

私も頑張ろうと思える

1つのエネルギー源になっています。

(卒論を教授に送りつけて、そのまま友達の車で

パソコン作業を継続しながら

数100キロ単位の移動をしたのはいい思い出です。)

 

また、その合間を縫って、

高齢者施設のスタッフや地域の公民館、

子育てイベントや地方のお祭りのブースなどで

一般向けにBLS講習会をしたり、

本物のAEDを背負って、医師と一緒に

ラソン大会のAED隊をやったり、

震災時には募金活動など

いろんな経験をさせていただきました。

本当に一生懸命だったし、楽しかったなぁ。

 

なぜ、私がここまで救急にハマったのか。

実は向いていた、ってのもあるかもしれません。笑

けど、実は一本の動画が忘れられなかった、

というのが、理由の一つだと思います。

 

https://youtu.be/JARA-ohihXc

 

時間がある時でいいので、ぜひ見ていただきたい。

私に6分ほど、ください。

 

私たち医療者って、

病院で待ってることしかできません。

(もちろんドクターカーやドクヘリで

医療者が現場に駆けつけることもありますが稀で、

ほとんど傷病人が病院に来てくれないと

私たちは何もできません。)

病院で心停止があれば、

私たちはすぐ対応できますが

病院の外で心停止が起きた場合、

できるだけ早くそれを周りの人が見つけ、

救急車を手配して、

病院に連れてきてもらう必要があるわけです。

そばにいる人が、行動をしなければ、

私たちがどんなにすごい治療ができても、

その人は助からないんです。

だったら、できるだけたくさんの人が

BLSを知って、AEDを知って、

自信がなくても、行動しなきゃって

思ってもらえるようにしなきゃ。

この動画を見て、

助けることができる命を、できるだけ助けたい。

だったら、みんなに知ってもらわないと。

仮に、日本の人全員がBLSができるようになったら、

AED使える人ばっかりになったら。

日本って、めちゃくちゃ安全な国になるなぁ、って。

だからこそ、小さな影響力しかないけれど、

私が伝えることができる人、1人にでも多く

BLSについて伝えたい。

そう思って、学生時代活動していました。

今ではあまり活動できてませんが、

思いは変わっていません。

どこかでまた、講習会とか、体験会とか

企画できたらいいなぁ。って思いました。

 

もし、このブログみて、

少しでも興味を持ってもらえたら嬉しいですし、

消防署や日赤などでは頻回に講習会やってるので

ぜひお近くで行われていないか、

調べてみてほしいです。

 

あと、

AEDってよく街中で見かけるようになったけど

いざという時、取ってきて!って言われたら

どこに取りに行けばいいか、

パッと思い浮かびますか?

実はこんな地図もあるので、

自分の家の近く、職場の近くだと

どこにAEDあるのかなーなんて

探してみてもらえたら嬉しいです。

https://www.qqzaidanmap.jp

 

追伸

まあ、そんなわけで救急にハマって

救急一色の生活を送ったおかげで、

就職時の面接時も自己アピールでこの話をして、

結果ICUに配属されるわけなのですが。笑

 

私とコロナ禍。

ICUという特殊な環境に少しずつ慣れ、

色々な仕事を任せられるようになってきて。

仕事が少し楽しいと思えるようになったものの、

ストレスフルで、かなり神経を使う日々なので

しんどい思いは正直常にありました。

夢だった看護師という仕事ができているけれど

現実は厳しい。

仕事はやっぱり生きていく手段、というのが

正直なところで。

趣味である推しのコンサートに行くことや

年に何度も夢の国に現実逃避をして

なんとか日々がんばっていた感じでした。

 

そんな時に、コロナが流行し始めました。

未知のウイルスに対する恐怖は

みなさんご存知の通りだと思います。

更に、医療従事者としての行動制限

(不要不急の外出どころか、

同居家族との食事以外は禁止されました。

同県内に住んでる弟が週末帰ってきても、

一緒にご飯を食べたり、マスクなしで話すことは

許されませんでした。

恋人とのデートも、本来は禁止。

懲戒解雇を覚悟で、ご飯なしで少しだけ会う

おうちデートを数ヶ月に1回程度していました。

理解のある相手で、本当に感謝です。)

医療従事者に対する、心無い差別

(スーパーやドラッグストアに行くことさえ躊躇い、

いつも通勤で使っていた公共交通機関

人の少ない時間帯にずらして使ったりしていました)

もし、自分が感染してしまったら、

自分の病棟に持ち込んでしまったら、という恐怖。

(ICUに居る患者さんにうつしてしまえば、

命に関わること間違い無いでしょう)

普段、なんとか趣味で気分転換をして

なんとか日々頑張っていたのに、こんな生活では、

鬱々としてしまうのは当たり前ですよね。

ストレスコーピングがうまくいかず、

メンタルも、身体も少しずつ壊れていきました。

 

最初は夜勤中に急に歯痛が出現して。

アイスノンを患部に当てながら半泣きで勤務を終え、

翌日歯医者に駆け込むと、

神経が死んでいる。と言われました。

原因はストレスだと言われ、神経を抜きました。

抜いた神経を見せてもらうと、

本来は透明なはずなのに黒く変色していました。

 

仕事中、ずっと腹痛と頭痛に苦しむようになり

吐き気が止まらず薬を飲まないと立ってられなくて。

動悸で目が覚めるになり、

毎日泣きながら出勤して、

仕事が終わったら安心してまた涙が出てきて。

ご飯も仕事の日は固形物が食べれなくて、

吐き気を堪えてなんとか水分をとる感じでした。

精神安定剤眠剤がないと

普段の生活が送れない状態にまでなりました。

師長さんや職場の保健師さん、

心療内科に受診して主治医にも相談して...

結局病休をもらうことになりました。

あんなに大好きだった看護が、

好きになってきてた仕事が、

本当に無理で、ただただ苦しくて。

 

あの頃が人生で一番どん底でした。

病休中も、

コロナ禍で周りもしんどい思いをしているのに、

仕事ができない自己嫌悪と、

仕事のことを考えるだけで布団からも出れなくて。

トイレ以外ベットから出れない日もありました。

実家で、ご飯など助けてくれた家族のおかげで

あの頃最低限の生活ができていましたが、

一人暮らしだったら、

生きるのをやめたくなっていたかもしれません。

 

一度復帰したんですが、

やっぱり数日で同じ状況に戻ってしまって、

もう、ここに戻るのは無理だと思いました。

めちゃくちゃ悩んだけど、

状況が無理だと諦めるしかありませんでした。

 

そんな状況でも、

異動や退職を同意してくれない職場。

辞めるって決めてからは、

少しずつメンタルが回復してきていたけれど、

戻る以外の選択肢を与えてくれなくて

それもすごくしんどかった。

無理だってわかってるのに。

移動させてもらえないなら、辞めるしかない。

退職交渉を半年以上行い、

やっと辞めることができました。

 

だから、

コロナ禍は私の人生を大きく変えたと思っていて。

今となっては、あのタイミングで

ICUを離れる運命だったんだ、って

思えるようになりましたが、

もう2度とあのしんどい思いはしたくないし、

無理になる前に休むことの大切さは

めちゃくちゃ体験して学んだので

これからの人生の大きな教訓になったと思います。

 

ちなみに、その後

自己分析をめちゃくちゃして、

自分がやりたいこと、どんな看護がしたいのか、

とことん考えて、全部書き出して、

友達に私ってどんな人間?って聞きまくり。

 

結果、今の職場に転職したわけですが。

その辺はまたゆっくり書きたいと思います。

 

やっとコロナが落ち着いてきて、

5類になった頃からやっと

医療者にも少しずつ日常が戻ってきて

(それまでは医療従事者はまだまだ、制限されてる

と感じていたので、本当に、やっと。)

本当、感慨深いというか。

まだ油断はできないけれど、

コロナに色々めちゃくちゃにされたけど、

でも、いろんなことがあったけど、

またこうして看護師ができていること。

看護が嫌いにならず、また戻って来れたこと。

本当に嬉しいなぁ、って思いながら

日々働いています⑅︎◡̈︎*

 

私の看護、ってなんだろう。

前回、看護師になるまでのことを振り返ったのですが

看護師になりたくて、看護が大好きで、

看護師天職!みたいな感じになってて

毎日楽しく、看護師やってるように見えたかもですが

実はそんなことなくて。

看護師になってからは、

自己嫌悪と、反省の毎日でした。

 

ずっと憧れてた看護師になった私が

いざ看護師になり配属された場所は、なんとICU

いわゆる集中治療室。

大きな手術後や、

院内で急変した人や、

救急車で運ばれてきた重症な人が入る場所です。

生理食塩水をシリンジで吸うのでさえ

凄く時間がかかるような、何もできない新人。

それなのに、相手は超重症で、機械や薬に囲まれた、

触ったり、体の向きを変えるだけで

血圧や心拍数などのバイタルサインが変動する

超繊細な患者さんたち。

頭の向きを調整して、

呼吸器の管の位置が少し変わるだけで

酸素が足りなくなったり、

咳き込んで管が抜けそうになることも。

ちょっとしたことでも凄く神経を使うし、

命がこの手にかかっているというプレッシャー。

いや、命を預かると言うのは

この仕事をしている以上当たり前なんだけど、

自分のやったこと一つ一つが命に直結すること、

自分がミスしないというだけでなく、

小さな患者の異変を見逃すと、

その人は死ぬかもしれない、という緊張感。

先輩たちはデキる、凄い人たちばっかりで、

今思っても、しっかり育ててもらったんだなぁと

思える新人時代を過ごしました。

厳しく細かい指導は、今の私の中で

ちゃんと残っているので本当に感謝です。

でも、社会人になりたてのぺーぺーだった私には

プレッシャーや緊張感に加え、

必要とされる知識や手技の技術力、

一生懸命やってもまだまだ足りない自分の無力感。

たくさん泣いたし、

自分には看護師は向いてなかったと何度も思ったし、

多重課題に動けなくなって絶望したり、、、

ほんと3年目くらいまでは、

看護師だと名乗るのも嫌なくらい、

自信はないし、ダメダメだったし、

自己嫌悪の塊でした。

 

仕事も全然楽しいって思えなくて、

看護をしてるというよりは、

業務を必死でこなしていく。みたいな時期も長くて。

先輩たちからしたら、なかなか成長しない

不器用で頭の硬い後輩だったと思います。

それでも、日々指導していただき、

一人前に患者さんを任せてもらえるようになって、

やっと仕事に小さな楽しさを見つけ出した頃、

どんどん仕事を任せられるようになっていきました。

看護研究、委員会、係の仕事、病棟の仕事、、、

日々の看護に加えて、

それぞれの仕事が少しずつ増えてきて、

リーダーとか、病棟の代表とかやるようにもなってきて

とにかく毎日一生懸命でした。

どんな仕事でも、それは当たり前のことだと思うし

そうゆうものなんだとわかってはいたけど、

正直大変でした。

同時に勉強もたくさんし続けなきゃいけなかったし、

自己研鑽とか、自分の成長のため、というよりは

この場所で生き抜くため、

患者を看るためには勉強が必要、という感じでした。

だから、知識はたくさんついたと思うし、

ガイドラインや学会で推奨されている治療・看護は

実践できていたと思います。

 

ただ、そのとき思っていたのは、

私がやりたい看護、ってなんだろう。という疑問。

超急性期の現場では、患者の命を守るのが第一で

私の看護観とか、どんな看護師になりたいかとか、

これからどうなっていきたいかとか。

全然わからなくなっていました。

 

私は看護師になるのが夢で、

その夢を実現させて。

それから、どうしたかったんだっけ?

看護師になることがゴールで、

それからのこと、あんまり考えてなかったな。

 

どんな看護師になって、

どんな看護がしたかったんだっけ?

 

急性期は好きだし、

やっと楽しいと思えるようになってきた。

でも、これでいいのかな。

 

研修で、自分の看護観を書く時間があったのですが、

白紙で全然描けなかったのを覚えています。

目の前のことで精一杯で、

ちゃんと自分と向き合うことが出来てなかった。

 

これからずっとICUにいて、

急性期看護、集中治療看護を極めたいんだろうか。

それとも、他の病棟や他の病院、他の場所で

看護をしていきたいんだろうか。

もしかして、看護師じゃない何か、

やりたい道が見つかるかしら、、、

 

私の看護、ってなんだろう。

最初に看護師になりたかったきっかけは

家族看護だった。

大学時代・就職してから

救急や急性期に興味があって、たくさん勉強した。

これからはどうしよう。

やっとICUで色々できるようになった頃から

そんなことを考えるようになりました。

 

看護師という夢。

物心ついた頃から、ずっと夢だった

看護師という職業。

私が看護師になりたい、と最初に言い出したのは

幼稚園の頃だったみたいです。

 

年少や年中の時のアルバムには

しょうらいのゆめ:某アニメのキャラクター

みたいなことを書いてたのですが、

幼稚園の卒園アルバムの寄せ書きには、

下手くそなひらがなで、かんごふさん、

と書いていました。

その時は世の中にどんな仕事があるのか、

そんなこともあまり知らず、

母が看護師だったということを知って、

なんとなく、私もなるー!と。

知っている数少ない職業のなかで、

大好きだった母の真似事から始まった、

看護師という夢。

(しかも、私が生まれる前に退職していたので

当時は働いている母を知らなかったんですよね笑)

そんななんとなくで言い始めたことだけど、

これを言うと家族も周りの人も、喜んでくれて。

看護師になる、と言い続けていつのまにか

小学生になっていました。

 

小学生中学年のとある春先。

同居していた大好きな祖父が病気に倒れ、

ものの数ヶ月で旅立ってしまいました。

私にとって、初めての身近での死の経験でした。

その時初めて、誰でも、人はいつか死ぬんだ、

っていう当たり前のことを実感しました。

祖父の亡くなったあと、泣きじゃくってる私に、

看護師さんが一緒におじいちゃんの体を拭こう、と

誘ってくれました。

その時はエンゼルケアなんて言葉も知らなかったのですが、

最期に祖父にしてあげられることを与えてもらい、

とても嬉しかったのを覚えています。

母や祖母と看護師さんと一緒に祖父の体を拭き、

その間、祖父との思い出を語らいました。

「おじいちゃんは、孫が看護師になりたいって

言っているんだ〜って自慢げに言ってたわよ」

なんて、看護師さんから聞かされたりして。

とても優しくて、刺激されたのを覚えています。

看護師さんって、患者さんである祖父だけじゃなくて

私たち患者の家族まで気にかけてくれて、

患者さんの家族全体を看護してくれるんだ!って。

その頃は知らなかったけれど、

いわゆる、家族看護、というものを実感しました。

なんとなく、周りが喜ぶから言っていた

ただの憧れだった職業から

看護師が将来の夢、目標、目指すべき姿として

変化した瞬間でした。

 

きょうだいが大きくなってから、

母は看護師に復職しました。

それがまたやっぱり格好良くて、

ますます夢が断固なものになっていきました。

 

中学生になってからは、

その祖父が亡くなった病院に直接アポを取り、

職場体験学習に行かせていただいたのも

よく覚えています。

その病院は私の生まれた病院でもあり、

実は独身時代母が働いていた病院でもあったのです。

地方の病院としてはよくある話なのですが、

その病院と縁があると、その時から思っていました。

 

その後も看護師になると言う夢はブレることなく、

看護科のある大学、専門学校をピックアップし

迷うことなく進路を決め、大学まで進みました。

入学時から目標も明確だったのも

頑張る理由になったので、それも良かったのかな。

たまたま見つけた夢ではありましたが、

私に合っていた部分もあるのかもしれません。

(実はセンター試験で失敗してやばかったけど、

二次試験で取り返して、無事第一志望に受かり、

塾でシンデレラガールなんて呼ばれた事件も

あったりして。笑)

 

大学に入ってからも、

看護師になるための勉強。

正直キツかったこともたくさんあったけど

夢に近づいていってる感じが凄く達成感あって、

めちゃくちゃ頑張れました。

サークル活動も含め、

今やってることが絶対に将来に繋がってる、

って思えて、それがまた楽しかったりして。

 

大学在学中に、とある科目がとても苦手で

教授とも合わない感じで(今ならわかる。)

単位をもらえなくて卒業できない、

なんて事件がありました。

看護師になる、以外の夢を持ったことない私。

けど、この単位をもらえなかったら

看護師になることはできなくて。

(そもそも、卒業できないと国試の受験資格も

もらえない)

もう半年頑張っても単位もらえる自信もなくて、

看護師を諦めたら、私はどう生きていこう、って。

大袈裟な気もするけど、

それだけ看護師になりたくて、

それだけ一生懸命で、真剣だったのよね。

結局、卒業延期して半年大学に残り、

もう一度その科目を死ぬ気で頑張って、

無事単位もらうことができました。

 

だから、

国試に受かった時は本当に本当に嬉しかった。

RADWIMPS夢番地、何回聞いたことか。

(世代がバレるw)

就職も、やはりあの病院と縁があったようで

同級生のみんなより一年遅れてしまったけど

ずっと夢だった看護師になり、

働き始めることができたわけです。

 

そんな感じで、物心ついた頃から

ずっと看護師になりたかったので

他の人生があったら私は何してるのかなぁ、

なんて思ったりするけど。

私は看護が大好きで、

看護師になって良かったって心から思っているので

過去の自分、頑張ってくれてありがとね。

なんて、今は心から思います。

 

ちょっぴり自己紹介。

生まれ育った地方都市住みの30代

独身です。

 

職場の近くに住んでるけど、

愛犬に会うために、頻繁に実家に帰ってます🐕

 

看護師をしてます。

いわゆる中堅と呼ばれる世代です。

委員会やら、教育やら、自己研鑽やら、

まあ、色々忙しくしてます。

 

趣味はジャニーズとディズニー。

嵐はずっとお茶の間だったけど、

僕君の国立ライブに参戦してから大ファンに。

それからNEWS、ジャニーズWEST

推しを順調に増やしています♡

ディズニーは一時期は地方住みなのに

(日帰りは無理な距離)

年パス持ちで、夜勤明けで新幹線乗って

舞浜に行くくらいでした笑。

コロナ禍で全然行けてなかったけど、

やっと最近行けるようになってきて。

初めてビリーヴ見た時は、号泣しました...笑

 

他にもジブリや絵本、

絵画も好きなので、美術館とかも好きです。

あと、温泉も好き。笑

もちろん、美味しいご飯も大好物。

友達やお母さんとランチ行ったり、

素敵なカフェを探すのも好きな休日の過ごし方です。

何かを作ったりするのも好きかなぁ。

生き物も好きなので、ひとりでふらっと

動物園や水族館に癒されに行ったり、

最近は観葉植物育てたり、

お花を飾るのも癒しの一つになってます。

 

あとは、学ぶこと、結構好きです。

新しい何かに出会うのって、わくわくしません?

知識も然り。

勉強を続けていかなきゃいけない仕事なので、

それが苦じゃないから、

多分看護師は天職です⑅︎◡̈︎*

(そう思ってないと、仕事ってやってられないよね←)

 

まあそんな感じで好奇心旺盛。

多趣味だよね、ってよく言われます。笑

きっと、好きなことや興味のあることは

これからもたくさん増えていくんだろうな〜。

 

特技は...どこでも寝れることかな。

仕事柄、めちゃくちゃ役立ってます。笑

 

そんな感じの人間です。

よろしくお願いします⑅︎◡̈︎*

はじめまして。

初めまして、Ayuです。

生まれ育った地方都市で、看護師をしています。

 

コロナ禍がやっと落ち着いてきましたね。

世界がどんどん変わる中で、

思うこともたくさんあったし、

何が正しくて、何が間違ってるのか、

訳がわからなくなることもたくさんありました。

他のSNSで吐き出すこともあったけど、

どこかに私の思いや気持ちを、

ただ、ただ、ぶつけれる場所が欲しいなぁと、

なんとなく思っていました。

そんなわけで、何年越し?って感じですが

ブログというものを始めてみることにしました⑅︎◡̈︎*

 

なので、

読みにくいかもしれないし、まとまりもない、

ただの気持ちを垂れ流す日記になると思います。

けど、ここには私のあるがままの気持ちや

考えていることを残していこうと思います。